橋本教会


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◆聖書の言葉

礼拝で語られた説教(聖書の説き明かし)の中から、一部を要約してご紹介します。
聖書が私たちに何を語りかけているのか、耳を傾けていただければ幸いです。

 

 

「救いへと招く主のまなざし」

イエスは更に言葉を続けられた。
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、
「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
(マルコによる福音書10章24-27節/新共同訳)

須田 拓 牧師

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と主は言われました。

この言葉が語られたのは、ある青年が、
どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるかと主に尋ねた時でした。

もう十戒の戒めなど全て守ってきたという男に対し、主は言われました。
「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

その言葉に、青年は悲しみながら立ち去りました。
もちろん相当に難しいことです。

しかし、それなら、財産を全て捨てて貧しい人々に施すなら、神に認められ、永遠の命を得ると主はここで言われたのでしょうか。

そうではないというのが、あの冒頭の言葉です。

しかし、これは金持ちだけの話ではありません。
弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
主は、「人間にできることではない」と言われたのです。

神の国に入ることは人間にはできない。それが主のお答えでした。
もし何かができると言うなら、主はあの青年に対してのように言われるでしょう。
あなたにできるのはそれだけか、あの別のことはどうなのか、と。
まだそういうものがたくさんある、それが私たちではないでしょうか。
しかしそれなら神の国に入れないというのです。

もしここで終わっていたとしたら、何と絶望的な話かと思います。
しかし、主は続けて言われました。

「神にはできる。」

神は絶望的な私たちを救うこともおできになる。

実はここまでの全ての主の言葉は、この一点に私たちの目を向けさせるためのものです。
あなた方は自分が何をしたのか、どうしたらよいのかと、自分のことにばかり目が向いている。
しかし、そうではなく、何でもでき、あなたを救うこともできる神にこそ目を向けなさい。
そう主は言われているのです。

その神に、こう仰る神の御子であるお方に目を向けるなら、
そこに何か見えてくるのではないでしょうか。
それは、こう仰られた後、十字架へと向かわれた主のお姿です。
確かにそこに私たちを本当に救ってしまう力があるのではないでしょうか。

あの青年は、とても自分にはできないと失望し、主の前から立ち去りました。
しかしその主の言葉を記録する際、マルコは「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と記しました。
この「慈しんで」というのは「愛して」という言葉です。
主は、できないと言って立ち去ることになる青年を愛の眼差しで見つめ、さらにその同じ眼差しを弟子たちにも向けられました。

その眼差しは今や私たちにも向けられているのではないでしょうか。
私たちもこの青年のように、何をしたらよいのか、どうしたら人生がよりよくなり、また、死の恐怖を乗り越えることができるか、その答えを聖書の中に見出そうとしているかもしれません。

しかし主はその私たちをあの眼差しをもって、
それも十字架の上から見つめておられるのではないでしょうか。
あなたに何ができるか、あなたがどういう者かなどに目を奪われていないで、
一目散にここに駆け寄ってきなさい。

ただここにのみ、あなたを父なる神の許に、そして永遠の神の御国に連れて行くことのできる道がある、と主は呼びかけておられます。

ただ主の十字架の許に走り寄り、キリストに結ばれて神の子、御国の民とされて、これができなければ自分はダメだという思いや、死で終わる人生のはかなさから自由になってよい。

「人間にできることではないが、神にはできる。」
主は十字架の上で御腕を広げて、その自由な歩みへと私たちを招いておられるのです。

(2013年8月25日主日礼拝説教より)

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「主の言葉はとこしえに立つ」

だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
……
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、
すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
こう言われているからです。
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
(ペトロの手紙一 1章13節、23-25節/新共同訳)

須田 拓 牧師

思い出のある会堂を取り壊すことは何とも寂しいことです。

それは、聖書が「草は枯れ、花は散る」、つまり、あの元気に生えている草も、
色鮮やかに咲いている花も、やがてしぼみ、
枯れる時が来ると語っていることを思い起こさせます。
形あるものは必ずなくなるときが来るのです。

しかし朽ち果てて行くのはモノだけではありません。
私たち自身も、いつか必ず朽ち果て、死を迎えます。

「草は枯れ、花は散る」というのはもともとイザヤ書40章の言葉ですが、
その頃、イスラエルは不信仰の故にバビロニアに攻め込まれて崩壊し、
人々もバビロンに連れ去られていました。

この言葉には、このまま敵国の地で花や草のように
死に絶えてゆくのではないかという彼らの思いが代弁されています。

イザヤはそこで、しかし「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と続けました。

そこで一つだけ残るものがある、それは主の言葉だというのです。

それは慰めの言葉でした。

永遠に残る神の言葉とは、神に従いきれず花や草のように散ってゆくイスラエルを、
神はなお見捨てず、顧み、導かれるということであり、
そのためにやがて救い主を送ってくださるということであったからです。

ペトロは、イザヤが「わたしたちの神の言葉は」と記したところを、
敢えて「主の言葉は」と言い換えることで主キリストというお方を意識させようとします。
朽ち果て滅び去ってゆく私たちをどうにかするために来られたお方があるというのです。

そしてそのキリストの血によって「むなしい生活から贖われ」、
朽ちる者から朽ちない者へと「新たに生まれた」はずだと洗礼を意識しながら言います。

あなたは洗礼によって最早この世の生涯だけで滅び去らない者、
終わりの日によみがえり、御国にて永遠に生きる者へと
新しく生まれ変わったはずではなかったか。
そして、その効力は永遠に残る、とペトロは語りかけていたのです。

ペトロは、迫害でいつ殺されるかわからない中にある人々に対してこの言葉を語りました。
13節の「身を慎んで」は「酒に酔っていない」ことを表す言葉ですが、
私たちの命がはかなく終わるという、本来酒に酔わないでは直視できないようなことも、
素面で直視できるはずだと言うのです。
それは、ここで死んで全てが終わってしまわないように
新しく生まれ変わったという事実があるからです。

だから、人生のはかなさを思うのではなく、
むしろ神が死から引き出してくださる時があることを信じて、その神に誠実に仕え、
その神の御業を証しし続けるために残りの生涯をしっかりと用いよと彼は言うのです。

私たちはたくさんの思い出のつまった会堂を取り壊します。

しかし、見える会堂がなくなっても、あの主イエス・キリストのしてくださった御業、
それを伝える御言葉はそこに変わらずに残っています。

そして私たちがここに建てる新会堂も、恐らくは40年か50年で朽ち果てるでしょうが、
それは決して空しいことではありません。

ここで、朽ち果て滅び去る者を救う神の言葉が語られ、
多くの方々が朽ち果てることのないようにと新しく生まれ変わらされると信じ、
そのための喜びの業として、私たちは朽ちる会堂を建てるのです。

(2012年11月11日 旧会堂最終礼拝における説教より)

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